世界の終わり、あるいは始まり

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小学生ばかりを狙った連続誘拐殺人事件が勃発した。新興住宅地で家族と共に平和に暮らす富樫修は、小学校6年の息子の部屋で、事件にかかわるある物を目にしてしまう。その後、次々と見つかる息子犯人説への物証。「なぜ、我が子が」という戸惑いと、息子の将来だけでなく、自分も家族の未来も破滅するという恐怖。免れようのない悲壮な現実を目の前にしたとき、人はあらゆる知識と想像力を総動員して逃げ道を探す。自分を守るため、そして家族を守るために。
物語前半は連続誘拐殺人事件の犯人探しを描き、後半では、息子の犯罪を誰にも相談できずに悩む父親の苦しみを、未来予想という作中作として挿入している。息子が警察に捕まった場合や一家心中を試みた場合、息子を自分で殺した場合など、読者は作中の数々のシミュレーションに翻弄され、結果、登場人物の苦悩を共有することになる。新本格派のひとりと称される著者の、斬新な手法がさえる1冊である。

また本書は、少年犯罪に関する問題を示した社会派作品でもある。ごく一般的な少年が凶悪な犯罪に手を染める原因はどこにあるのか。少年法で守られるということは、罪を償う機会を与えられないということでもあるのではないか。少年の父親が嘆く「小動物を殺すなとは教えるが、人を殺すなとは教えないだろう。人を殴るなとは教えても、人を殺すなとは教えないだろう」という言葉が、重く響く。(冷水修子)


昨日読み始めたのですが、
止まらず(汗)
結局今日の昼間までかけて読み終えてしまいました(^^;

コワイ話です。
自分の息子が誘拐されたら・・・とは考えても、
自分の息子が誘拐殺人事件を起こしたら・・・とは人間考えないものだろう。

うちの子にかぎって、そんなことをするわけがない。
自分にかぎって、そんな問題に巻き込まれることはないだろう。
そう思って生きている。

もしもそれが自分の身に起こったら、
この小説のようにカオスの中で喘ぐしかないのか。

難しい、というか、
想像の世界と現実を行ったり来たりで、
だんだん自分も主人公と一緒に翻弄されてしまいます。
ただ、
認めたくないあの一言。

「隣の子供が誘拐されたら、かわいそうだとは言いつつも、
うちじゃなくてよかったと内心喜んでいる」

というような事が書いてあったんだけど。
我が身かわいさ。
自分本位。
私も悲しいことにそう思う人間の中の一人であることに、
気付かされ、胸がズキンと痛みました。

世界の終わり、あるいは始まり

「希望」を持ちさえすれば、
始まりと捕らえることができるのだろうか。

私には無理な気が・・(汗)

父親の立場でなく、
1人の人間として家族や事件と向き合う富樫修が、
あまりにも正直で、等身大で、
思わず自分と比べ、
そうだ、そんなもんだ、私もそうだ、と、
辛くなってしまった。

これはきっと現在進行形で「親」である人には重い本だ。
すでに子供が巣立った「親」ならば、
こんなことにならなくてよかったと、胸をなでおろすだろう。
まだ特に子供を欲しいと思っておらず、
これから子供を持つ"可能性"のある私は・・

むむむ。

親に怒られたからと14歳の子がバスジャックしてしまうこのご時世。

ほんと怖いです。
考えさせられます(汗)



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